前回2012年ロンドン五輪出場を逃してから4年。「いま自分が持っている力の中では納得のレースだった。メダルを取れたことが一番」。初めて挑んだ五輪の大舞台で輝きを放ち、充実感を漂わせる口調でそう語った。
19日にポンタル周回コースで行われたリオデジャネイロ五輪男子50km競歩。「試合の何日か前までは緊張していたが、スタートラインに立ったときは良い緊張感だった」。ほぼ順調に調整を終え、「やることはやった。自分の力は出し切れると思っていた」と、レースに臨んだ。
序盤から上位集団でレースを展開した。中盤以降も安定した歩きで入賞、メダル圏内をキープ。先頭との差を詰め、一時はトップに追い付いた。終盤は激しいメダル争いに。3位で残り5kmを迎えたが、48kmすぎに後ろから追い上げてきたカナダ選手に抜かれた。
「追い付かれて一瞬このまま行かれてしまうかなと負けを覚悟した。でもまだ仕掛ける体力はあった。一か八かの勝負をして、それで駄目なら負けたなという気持ちだった」。最後の力を振り絞り、「今までで一番自分を追い込んだ」と勝負を懸け、再び抜き返した。その際に互いの体が接触する場面もあったが、ぐんぐん差を広げてゴールに向かった。
「ゴールラインを踏むまでは安心できなかった」。3位でゴールした瞬間は「うれしかったけどきつかった。後ろから追い付かれる不安もあっていろいろな気持ちになった。でも最高でした」と振り返った。
しかし、快挙達成のゴールから一転、カナダ側が終盤の接触が進路妨害だとして抗議、失格処分となった。過酷な50kmのゴールが迫るぎりぎりの状態の中で、「接触したのは覚えていたが、そこまでだったかなという気持ちだった。カナダの選手も全然怒っていなかったし謝ってきてくれた」。日本側もすぐに抗議し、最終判定は審議に委ねられた。「日本陸連の方たちが必死で対応してくれていた。選手にはどうすることもできないので」と、すべてを任せる気持ちで結果を待った。
失格か、それともメダル復活か―。思わぬ展開に揺れ動く気持ちを抱えつつ、「ちょうど女子(20km競歩)のレースが始まったので応援に集中していた」。審議の結果、判定が覆り、銅メダル獲得が確定。再び歓喜が訪れた。
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中野実業高(現中野立志館高)2年で競歩を始め、のめり込んだ。福井工業大(福井市)時代、競歩を専門とする小松短期大(小松市)の内田隆幸監督から指導を仰ぐようになり力を伸ばした。世界選手権には過去3大会連続で出場。恩師と二人三脚で築き上げた歩型を武器に、昨年の北京大会では表彰台にあと一歩と迫る4位に入った。2013年に所属先を自衛隊体育学校に移したことも大きなプラスになった。
リオ五輪出場への強い決意で臨んだことし4月の日本選手権では、悪天候の中、代表入りを確実にする2位に。昨年11月に母繁美さん(享年63)を病気で亡くし、家族への思いを胸に力強く歩き切った。「今まで一番だった」という重圧を乗り越え、初の五輪切符をつかんだ。
そして、メダル獲得を目標に挑んだリオの大舞台。ゴール後の失格騒動で状況は二転三転したが、日本競歩界に新たな歴史を刻む銅メダルを手にした。「メダルを目標にしていたが、本当に取れるとは思っていなかった部分もあった。実現できて良かった」と喜びに浸った。
五輪の表彰台では「何とも言えない気持ちになった。日の丸が掲げられたときは良い気分だった。メダルは結構ずっしりしていて重い。これまでいろいろな人たちの協力やサポートがあった。その思いが詰まった重さだと思う」。周囲に対する感謝の思いとともに、メダルの重さをかみ締めた。
自身初の五輪を終え、「世界選手権の延長という感じでいたが、盛り上がりや周りの反応が違って特別な感じがした」と荒井選手。4年後の五輪は東京が舞台だ。「今回以上の色のメダルを取りたい」。さらなる輝きを目指し、また一歩ずつ歩き出す。