須坂新聞WEBサイト 【特集「長野空襲」】長野機関区焼け野原に石沢正さん(77、旭ケ丘町)
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1915(大正4)年、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会。全国73校から地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、京都二中が優勝。第10回から会場が甲子園球場になり、学制改革により1948(昭和23)年から全国高校野球選手権大会と名称を変更。
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【特集「長野空襲」】長野機関区焼け野原に石沢正さん(77、旭ケ丘町)(2017.08.11)

私が5歳の時に長野空襲があった。

 長野駅東口の長野機関区から直線で200mほどの所に住んでいた。長野機関区の中に、高射機関銃を据えた兵隊の陣地があった。
 朝8時ごろだったと思うが、機関士だった父が慌てふためいて帰ってきた。「長野飛行場が攻撃されている。隠れろ」と言われ、家族で家の押し入れに隠れた。長野が空襲を受けたのは初めてだったので、どういうものかよく分からなかった。
 駅東口一帯はすべて国鉄の施設だった。午前9時ごろから午後1時ごろまで徹底的に攻撃された。夕立のような勢いで、機関銃の陣地が一瞬で吹き飛んだ。兵隊3人が亡くなったとされているが、もっと多くの人が亡くなったと思う。
 隣の家のご主人も機関区に勤めていて、被弾した。病院に入院し、後日、奥さんがその弾を見せにきた。
 長野機関区は、機関車を修理するだけでなく、飛行機の補助タンクも作っていた。そうしたこともあり、狙われた。
 米軍機が去ってから善光寺近くの妻科の親戚の家に逃げた。終戦の15日はとても静かな日だったことを覚えている。長野機関区の建物は全部なかった。
 長野空襲で亡くなった人の数ははっきりしていない。長野空襲を語り継ぐ会などによると今現在は47人ということになっているが、実際はもっとたくさんいると思う。多くは民間人が犠牲になった。
 当時、徴兵保険があり、私も入っていた。保険金額1,000円だった。昭和16年の生後9カ月の時に入った。生まれたばかりの赤ん坊に、こういう保険をかけざるを得なかった親の気持ちは、大変なものだったと思う。二度とそういう社会にしてはいけない。

 

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