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【ニュースクローズアップ】井上地域発掘調査~天目茶わん出土(2012.04.15)

 県発注の国道403号須坂市幸高~井上拡幅工事(810m区間の4車線化)に伴う埋蔵文化財調査で昨年、須坂市教育委員会は、鮎川支流と推定される旧河川跡を確認した。

 また、古代(8世紀後半~10世紀前半)から集落が存在し、14世紀前半には有力寺院があった可能性が高いことが分かった。
 昨年7月~11月上旬に行った4カ所の発掘調査(合計面積約3,200㎡)で、奈良・平安時代の住民が用いた①土師器(はじき、素焼きの土器片、大半)②須恵器(すえき、陶質の土器片、若干)とともに、中世の有力者か寺院の存在を示す③古瀬戸の比較的早い時期の天目茶わん(14世紀後半)④輸入白磁(わん片)⑤カワラケ(素焼きのさかずき片、13世紀)⑥住民は使わない須恵器の水瓶(すいびょう)片⑦同じく、布目瓦を転用加工した紡錘車(ぼうすいしゃ、糸をよる)―などが出土した。
 また、古代の柱の一部(柱根)や柱穴、輸入銭2枚(11世紀の宋銭と13世紀の南宋銭)が確認、出土した。
 天目茶わんは、中国浙江省天目山の仏寺で使われた茶わんを鎌倉時代に輸入し、日本では抹茶に用いた。上方が黒釉、高台際は褐色の土膚で、同形も天目茶わんと呼んだ。
 出土した天目茶わんはコーヒー色。調査に当たった生涯学習スポーツ課の田中一穂学芸員は「高台際が滑らかな曲線を描いている。愛知県瀬戸市付近で輸入品をまねてしっかり真面目に作ったもの。天目茶わんに入るか分からなかったが、専門家に見てもらって天目茶わんとの結論を得た」と話す。
 製作年代は南北朝時代の1350年ごろで生産量も流通量もわずかな希少品という。
 茶わんが存在し、茶の文化を持っていたことは何を意味するか。田中学芸員は「当時は茶の産地や種類を識別する闘茶が流行した。茶の遊びができる人は有力者や寺院などに限られたはず」。
 また「宴席で使うカワラケや、産地は不明だが、8世紀後半までしか作られない須恵器の水瓶が流通していること、一方、紡錘車に転用されているが、寺院などで用いた布目瓦が出土していることから、井上氏など有力な領主か、井上氏の保護の下に古代以来の寺院が存在していた可能性が高い」。
 寺院の存在を裏付ける根拠は①小坂神社所蔵の銅製鰐口(わにぐち)の銘文「奉寄進 信州高井郡今里宝積寺 願主焦仙 応永二十一年七月十八日」(1414年)。天目茶わんの製作から約50年後に小坂神社の近くに存在していたようだ。
 また、これまで不明だった宝積寺について近年、古文書「永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)」(1563年、醍醐寺の僧の旅行支出簿)に「宝積寺・善光寺等へノ案内者ニ酒以下ノ入目也」との記述があり、善光寺と並んで記載されていることが明らかになった。
 田中学芸員は「中世には井上氏の居館か、宝積寺のような寺院との関係を示す希少な高級陶磁器が出土し、今後、井上氏や井上地域の歴史を明らかにする上で貴重な発見があった。井上氏の名が出てきて発展する前のムラ外れが発掘で分かったにすぎないが、古代から続くムラや中世の寺院があったことなどが垣間見えた。これを機に井上氏をめぐる議論が活発になることを期待している」と話す。
 一方、旧河川跡は、元禄10(1697)年とされる古絵図に「押切」(洪水の跡)と書かれた部分が見られ、鮎川のはんらん跡が数条描かれていることなどから、鮎川の支流と推定する。
 古代中世の遺物出土層を河川跡が切っていることから、それ以降のはんらん流路跡と確認されるとする。
 また、土師器の摩滅が少ないことや破損が少ないことなどから、水の影響を受けたとしても流されるような大きな移動の想定は難しく、ムラの縁辺部に土器捨て場のような小屋か小規模な建物が1、2棟あり、その柱根が残存したと田中学芸員は推定している。
 井上地域の歴史に詳しい神林信雄さん(幸高町)は10日の取材に「宝積寺があったことはよりはっきりした。今後の報告書の記述に期待したい」と話す。

 

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